剣道は、日本の伝統的な武道であり、古代から現代まで武士の修行と精神の鍛錬に大きな役割を果たしてきました。
しかし、その起源や歴史について知られていないことが多いのが現実です。
たしかに、中学校で習ってなければ知らないですね!
まあ、やらないよね!
ということで、本記事では、平安時代から始まった剣道の歴史を徹底的に解説します。
歴史を知れば、剣道が持つ心身の成長に焦点を当てた価値に気付き、自己鍛錬や精神修行への興味を深めることができるでしょう。
剣道に対する新たな理解と尊敬を抱きながら、歴史の旅に出かけましょう。
何かっこつけてるんですか?いいから、はやく教えてください!
この記事はこんな方におすすめ
・初めて剣道部の顧問になった
・剣道の歴史を知りたい
剣道の起源の歴史的解釈
剣道の起源は、大きく2つの要素に分けられます。
日本刀由来の起源
平安時代に登場した「日本刀」が剣道の起源となります。
日本独自の刀である日本刀は「反り」と「鎬(しのぎ)」を持ち、片刃の形状をしていました。
この特徴的な刀が戦いの主要な武器として使われるようになりました。
その後、日本刀は武士の強さや美しさの象徴としてだけでなく、精神的な価値を持つ美術品としても扱われるようになったのです。
剣術由来の起源
戦国時代から剣術が発展し、数多くの流派が誕生しました。
江戸時代になると、平定された社会で戦いの局面が少なくなり、剣術は稽古の道としての側面を強めていきました。
江戸中期には「剣道具」が開発され、より安全な稽古が可能となったのです。
竹刀を使っての「打込み稽古法」が広まり、道場での修業や剣術の試合が盛んに行われるようになりました。
明治維新により武士階級が廃止された後も、大日本武徳会の設立により剣道は徐々に体系化され、大正初期には「剣道」という名称で統一されました。
現在も、打撃や投げ技を含む実戦想定の剣術は「撃剣」としてわずかながら残っています。
剣道の歴史は、日本刀の戦いから始まり、剣術の稽古として進化し、現代に至るまで伝統と精神を重んじる美しい武道として続いています。
年代別の剣道の歴史
平安時代(794年~1185年)
平安時代(794年〜1185年)に始まる日本刀の起源は、諸説ありますが、一説によれば東北地方の騎馬戦を得意とした部族が蝦夷(現・北海道)との交易の際に使用した直刀が、日本刀の原型とされています。
平安時代中期には、この直刀が反りを持つ形状に変化し、現在知られている日本刀の基本的な形が完成しました。
鎬造りの刀剣が主流となり、武士の主要武器として戦場で使用されるようになったようです。
さらに、武士たちの帯刀によって、日本刀は単なる武器だけでなく、武士の「精神的象徴」としての役割も担うようになりました。
室町時代(1336年~1573年)
室町時代(1336年〜1573年)には、戦国時代に突入し、戦闘スタイルが白兵戦に移行することで、剣術の重要性が高まりました。
この時代には様々な剣術の流派が誕生し、剣豪たちが名を残しました。
また、1543年に鉄砲が伝来し、日本の砂鉄の良質さが認識されたことから、「たたら製鉄」により高純度の玉鋼が製造されるようになったのです。
これにより、日本刀の製作技術と刀身の品質が向上し、長い戦乱の時代を経て、日本刀製作の技術と剣術が高度化・専門化していきました。
日本刀は、その美しい刀身や高度な技術で多くの人々を魅了してきました。
現在もなお、日本刀の美学と精神性は剣道を通じて受け継がれ、武士の精神や伝統の価値が後世に引き継がれています。
江戸時代初期(1603年〜1660年)
江戸時代初期には、江戸幕府が成立し、乱世から一変して社会は安定していきました。
合戦の頻度が低下した一方で、日本刀は武士の精神的象徴としての地位が確立されました。
剣術の重要性は低下していきましたが、日本刀の美学と武士の精神が根付く時期でもあったようです。
江戸時代中期(1660年〜1750年)
江戸時代中期には、剣術が「人を殺す技術」から「人間形成を目指す修練の道」へと昇華され、「活人剣(かつにんけん)」として発展しました。
戦闘技術だけでなく、武士の生き方や価値観までを包括する修行法でした。
この時期には多くの剣豪が書物を著し、後の日本人の価値観に影響を与えました。
江戸時代中期には、直心影流の長沼国郷が防具として頭に装着する面と腕に装着する小手を製作し、「竹刀打ち込み稽古法」を確立しました。
これは現在の剣道の源流とされます。
竹刀打ち込みの稽古が広まる中、中西忠蔵子武が鉄面や竹具足式の防具を使用するスタイルも登場し、剣術の稽古がより実践的なものとなっていきました。
江戸時代末期(1750年〜1868年)
江戸時代末期になると、防具の改良が進み、より強度の高い「四つ割り竹刀」が発明されました。
胴もなめし革を張って漆で固める、現在の剣道具に近いものが開発されたのです。
幕府設立道場である講武所頭取並の男谷信友が、この四つ割り竹刀を公認し、全長を3尺8寸と規定しました。
この頃には、道場や流派が隆盛を極め、「幕末江戸三大道場」と称される道場も存在しており、千葉周作は竹刀打ち込みの技を体系化し、「剣術六十八手」を確立しました。
現在のような審判規則や大会はなく、江戸時代末期の竹刀打ち込みは真剣勝負が通例であり、10本勝負が行われていました。
この時代の剣術の発展は、現在の剣道の基盤を築いたといえるでしょう。
明治時代初期(1868年〜1873年)
明治維新により、武士はその職を失いました。
こうした変革の中、直心影流の榊原鍵吉が「撃剣興業」として剣術の試合を見世物として披露し、収入を得る試みを始めました。
撃剣興業は客寄せのために派手な動作や掛声を取り入れ、人気の興行となり、同じ時期、練兵館や玄武館の大家たちも興行を催行し、剣術の普及に努めました。
明治時代中期(1876年〜1883年)
明治9年(1876年)には廃刀令が公布され、武士の帯刀が禁止されるなど、剣術は徐々に下火になりました。
しかし、警察が剣術の訓練を奨励するような動きが出てきたのです。
警視庁の抜刀隊が西南戦争で戦功を挙げたことが剣術の価値を再認識させ、剣術家たちが警察に奉職することが増えました。
明治10年(1877年)には警視庁が「警視流木太刀形」と「撃剣級位」を制定し、剣術の訓練が進められました。
明治時代末期(1885年〜1912年)
明治28年(1895年)、日本武術奨励の気運が高まり、「大日本武徳会」が設立されました。
剣道を含む武術の振興、教育、顕彰を図る全国組織として京都に設立され、剣道の普及に尽力しました。
剣道は興行から教育へと位置付けが変わり、明治44年(1911年)には中等学校の教育科目として剣道が取り入れられ、教育現場にも普及していきました。
これにより、「剣道」という名称が正式に用いられるようになりました。
大正時代(1912年~1926年)
大正時代に入ると、「剣道」の名称が広がりつつありましたが、古流剣術との明確な区別はなく、流派名を名乗る剣道家も多く存在しました。
この時期、剣道の普及と指導法の改善に努めるため、大日本武徳会武道専門学校(通称:武専)と東京高等師範学校(通称:東京高師・現在の筑波大学)が剣道教員の養成機関となりました。
著名な剣道家である武専教授の内藤高治と東京高師教授の高野佐三郎は、「西の内藤、東の高野」として知られていました。
高野佐三郎は、東京高師で剣道を指導する中で、大人数に向けて一斉に指導する課題を感じ、団体教授法(号令に合わせて全員が同じ動作をする稽古法)を考案しました。
これにより、集団での効果的な指導が可能となったようです。
同じくこの時期に、大日本武徳会は全国から25名の剣道家を選び、「大日本帝国剣道形」(後の「日本剣道形」の原型)を制定しました。
この形は、全国各地に分散していた流派を統合し、共通の技法として体系化することに成功しました。
また、明治初期の興行で見られた技の乱れや刀法の軽視を正し、剣道の一つの基準を示すことにもなったのです。
大正6年(1917年)、段位制が導入され、技量や精神を鍛錬する目安や目標が設定されました。
これにより、日本刀を想定した剣術の技や精神が後世に継承されやすくなりました。
この時期、西久保弘道(警視総監・東京市長等歴任)が大日本武徳会武道専門学校校長に就任し、「武道」を提唱し、「武術」を「武道」に改称し、競技名称を「剣道」に統一しました。
大正13年(1924年)からは、明治神宮体育大会が開催され、現在のようなリーグ戦やトーナメント方式で優勝者が決まる方式が採用されました。
この競技性の導入には一部の剣道家が反対する姿勢も見られましたが、「現代剣道」として競技性を持つ契機となったのです。
このように、大正時代は剣道の統一と発展が進み、競技としての基盤が整えられました。
昭和時代(1926年~1989年)戦前~戦時中
昭和初期には、剣道はその地位を着実に築いていきました。
1926年と1930年には2度の天覧試合(御大礼記念天覧武道大会・皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会)が行われ、国内外の注目を集めました。
さらに、1931年(昭和6年)には師範学校と中等学校で剣道が必修科目となり、広く国民が剣道に触れる機会が増えたのです。
しかし、第二次世界大戦開戦を機に、剣道は政治動向に左右されるようになりました。
日本政府は昭和17年(1942年)、戦時体制に入ると、大日本武徳会を厚生省、文部省、陸軍省、海軍省、内務省共管の外郭団体に改組しました。
剣道は国民の戦闘訓練に導入されたのです。
この時の剣道は接近戦での戦闘を想定しており、打突を「斬突」という表現に変え、軽い打突や中途半端な打突は認めず、一本勝負を奨励し、戦闘に限りなく近い形態となりました。
また、剣道の精神も国民の戦意高揚に利用され、極めて好戦的な特性を持つものとなりました。
1943年(昭和18年)には、段位制を等位制(五等~一等)に変更し、「教士」の称号を「達士」に改めるなど、より軍部の意向を反映した形態に変化していきました。
戦時中の剣道は、戦争に従事する者にとっての身体と精神の鍛錬手段として位置づけられ、その戦闘的な性格は一層強調されたのです。
昭和時代(1926年~1989年)戦後
戦後、剣道はGHQによる禁止期間を経て再興が図られました。
1945年(昭和20年)の日本の無条件降伏により、連合国軍の占領下に入った日本では、大日本武徳会が解散され、剣道の組織的活動は禁止されました。
学校や施設での剣道も全面的に禁止され、武道教員の教員免許も無効とされました。
1949年(昭和24年)には警察での剣道も禁止され、剣道は事実上消滅してしまったのです。
1950年(昭和25年)、一時的に「全日本剣道連盟」が創設されましたが、日本の独立が回復していなかったため、「剣道」という名称が認められず、「撓競技」という名称に変更されました。
この競技では、竹刀を用いて洋服姿で打ち合い、武道的な要素を排除してスポーツとして実施されました。
しかし、日本の独立が回復すると、「剣道」の名称が復活し、全日本剣道連盟が再び設立されました。
撓競技は剣道と共存していましたが、1954年(昭和29年)に撓競技のルールの一部が剣道に引き継がれた後、撓競技は廃止され、「剣道」として全国に普及していきました。
昭和28年(1953年)には、第1回全国警察官剣道大会、第1回全日本剣道選手権大会、第1回全日本学生剣道選手権大会が開催され、競技としての復活を果たしました。
全日本剣道連盟は、「民主的競技スポーツ」として剣道を実施し、現在の全日本剣道連盟が設立されました。
剣道は再び国民の間に広まり、その発展を遂げることとなったのです。
昭和時代(1926年~1989年)高度経済成長期
戦後10年が経過したころから、剣道の競技システムが整備されました。
1955年(昭和30年)には、初めて国民体育大会の正式種目となり、1958年(昭和33年)には宮内庁が全日本剣道連盟に天皇盃を下賜し、これが全日本剣道選手権優勝者に下賜される元となりました。
同年、全日本剣道連盟は最高段位を十段と制定し、段位性の基準を明確化しました。
さらに、剣道は教育現場でも普及していきました。
1957年(昭和32年)に中学校の正課体育として採用され、1962年(昭和37年)には中学校で必修正課科目として実施され、翌年には高校でも必修正課科目として導入されました。
戦後、剣道は男性のみの競技でしたが、1960年代から1970年代にかけて女性の剣道人口が増加し始めたのです。
従来、剣道は武士の剣術から由来していたことや戦闘訓練に使われていた経緯から、女性の剣道家は極めて少数でしたが、男女共学化や女性の社会進出により増加しました。
昭和37年(1962年)には、第1回全日本女子剣道選手権が開催され、女性の剣道の競技が始まったのです。
剣道は戦前から海外でも一部実施されていましたが、戦後も本格的な国際化は進んでいませんでした。
しかし、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで剣道がデモンストレーション競技として披露されたことで、海外への認知が拡大しました。
昭和45年(1970年)には、国際剣道連盟(現・FIK)が発足し、第1回世界剣道選手権大会が開催され、17の国と地域が参加しました。
これにより、剣道の国際的な普及が進展したのです。
平成時代(1989年~2019年)
平成に入ると、日本の景気低迷と国際化の弊害が少しずつみられるようになりました。
平成9年(1997年)には、全日本女子剣道選手権大会に皇后盃が下賜され、名実ともに女性の剣道が男性と同じ位置付けとなりました。
さらに、平成12年(2000年)には、剣道の最高段位が十段から範士八段に改定され、現在の段位階級が確立されました。
これらの変化により、剣道の社会的地位が再定義されることとなったのです。
全日本剣道選手権は、毎年NHKでも放映されるようになり、一部の選手がスターとして脚光を浴びるようになりました。
特に、宮崎正裕氏(現・神奈川県警)などの連覇を含む6度の優勝を果たしたスター選手は、「平成の剣豪」として広く知られるようになりました。
平成24年(2012年)からは、中学校の体育必修科目として武道が男女ともに導入され、剣道を含む武道が義務教育課程に組み込まれました。
しかし、一部の学生が宗教上の理由で剣道の履修を拒否したことから、最高裁判所まで争われるケースも生じました。
平成後半頃からは、YouTubeなどでトップ選手の映像視聴が容易となり、学生をはじめとする若年層の躍進が顕著となりました。
竹ノ内佑也選手など、史上最年少での活躍が注目され、世界剣道選手権でも高校生を含む学生選手が日本代表に選出されるなど、学生の実力が認知されるようになったのです。
全日本剣道選手権でも、若い世代の選手がベスト4に進出する光景が見られるようになり、剣道界の活性化がみられるようになりました。
令和時代(2019年~)
令和を迎えると、剣道界では剣道具や竹刀の進化に伴い、競技の高速化と技の多様化が進みました。
これに対応するため、全日本剣道連盟は令和元年(2019年※厳密には平成31年4月)に試合・審判規則を改定し、竹刀と剣道具に関する新たな規定とガイドラインを制定しました。
これにより一部の大会で混乱があったものの、徐々に浸透しています。
全日本剣道連盟は内閣府の認可を受けて公益財団法人に移行し、令和2年(2020年)に「全日本剣道連盟《基本計画》〜次世代への継承に向けて〜」と題した中期ビジョンプランを策定しました。
これにより、少子化対策や競技人口拡大、マネタイズ、財政均衡、組織ガバナンスなどの重要課題に向き合う動きが進んでいます。
令和2年(2020年)からは、新型コロナウイルスの感染拡大が日本でも始まりました。
政府の緊急時代宣言により、全日本剣道連盟は一定期間の対人稽古自粛を呼びかけたのです。
その後、稽古再開に向けた感染拡大予防ガイドラインが策定され、マスクを着用した稽古や熱中症対策などが行われました。
大会の延期や中止も多く、高校三大大会も例外ではありませんでしたが、昇段審査の再開や稽古再開の取り組みが行われ、剣道界は新型コロナウイルスへの対応に努めました。
剣道の歴史のまとめ
以上で、剣道の起源を平安時代から令和まで徹底解説してきましたがいかがでしたでしょうか。
こんなにも長い歴史があるんですね!
歴史を知ると、また違った見方ができるよね!
剣道は長い歴史を持つ日本の伝統的な武道であり、武器としての剣の技術から心身の鍛錬に重きを置く精神性へと発展してきました。
平安時代の剣術から始まり、戦国時代の流派の競合、江戸時代の武士の道場文化、そして現代の競技スポーツとしての剣道へと進化してきたのです。
令和の時代においても、剣道はその美しさと厳しさ、そして精神性を多くの人々に魅了し続けています。
伝統を重んじつつも、新しい時代に合わせた剣道の発展が望まれることでしょう。
剣道の道を歩む者たちにとって、技術の向上と心の成長が共に成就することを願っていますよ。
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